温かないのち
こんな朝から、私は、温かないのちをお腹に入れる。
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今朝起きてFacebookをチェックしていたら、お葬式の案内が目に飛び込んだ。こちらの音楽院の友達のお母様(看護師をされていた)が亡くなったそう。
合掌。
直接の知り合いは皆まだ元気だけれど、その知り合いや家族が感染した、亡くなったというのは、仕事のオンラインミーティングでだんだん聞くようになってしまった。
メールの受信に気づいて開くと、夏に招待されていたミシガン州の音楽祭の中止が決定、とのこと。やっぱり。
3月初めに色々なものがクローズしはじめた途端、私の春の予定は綺麗さっぱり無くなったけれど、今は、夏と秋のスケジュールで、どれがまだ予定通りやるつもりで、どれがキャンセルで、どれが延期だか、自分のことなのに把握しきれていない。
もちろん少し残念、というより、少しだけ寂しかったけれども、きっと次がある。
なるようになるでしょう。
ひとつ大きく深呼吸。
もう吹っ切れた。
最近、公演を中止 "せざるを得なくて" "残念" "無念" "断腸の想い" "申し訳ない" などと言うのをよく耳にする。無責任だけれど、痛々しく、申し訳なく思うことなどない、と私は思う。こればっかりは、不可抗力だ。誰のせいでもない。
それだけの思いを持って創ってきた人たちなら、遅かれ早かれ、きっとまたなんらかの形で実現するでしょう。
私のFacebookのニュースフィードには様々な国の友達のポストが流れてくるけれど、ここのところ日本語のポストは悲観的なのが多いなと、なんとなく今朝は思った。安倍さんの動画に「庶民の目線がない」とか、8割接触を減らすという数値モデルを作った学者に「8割おじさん」とあだ名が付くとか、それでいて外国の首脳のスピーチは疑問を持たずに受け入れられるとか、なんだかやっぱり日本はコミュニケーションが難しそうだなぁ。緊急時はどんな決定にも一長一短あるし、どの国も失敗はあって、その中でなんとかやっているはずなのに。
私がこんなこと言ってもしょうがないのだけれども。
空気の入れ替えに窓を開けて、うちの前の道を見下ろすと、こんな朝から、霊柩車が通った。
またひとつ深呼吸。
キッチンに行って、バジルを嗅ぐ、パスタを茹でる、肉を切る。
“一体力のためにというよりも精神のために。動物の温かないのちをきちんとお腹に入れないと、人は心に力がつかない。” という、江國香織さんの小説の一節を思い出す。
去年亡くなった私のルームメイトもきちんと食事をする人だった。どんなに心の元気がない時も、朝の7時半にはキッチンに降りてきて、窓の外を眺めながら、ゆっくり味わって食べていた。
こんな朝から、私は、パスタと肉をいただく。今日も一日家にいる私の身体に栄養をモリモリ入れる。
何に対してとも表わせない感謝を全身で感じながら。